#52 My path to English~英語への道!中学編。学びの原点は昭和の塾でした。

英語職人

時代を昭和半ばに巻き戻しましょう。1970年、中学生になった私は、密かな決意をしました。ヨシッ、英語だけは学年1番になってやる!他教科の成績は平均並みで、面白さも新鮮味もありません。高度成長期、世界のエネルギーを感じながら、英語という未知の世界に憧れていました。体力や後ろ盾のない者が生きていくためには、学問か手に職をつけ自立するしかないと思ったのです。子ども心にうなだれた人生を何とかしたい。英語をマスターすれば堂々と生きていける。そんな予感を胸に未来を見据えていました。

とはいえ、意気盛んに受けたLesson 1から得意のツッコミが炸裂します。This is a pen.を「そんなん、見ればわかるやん」、I am a pupil.(私は生徒です)を「そんなん、いちいち言う必要あるん?」と…生意気な英語ビギナーでした。

中学に入学してすぐ、夕食作りから逃げるため部活(卓球)に入り、ほぼ同時に塾らしき所で英語を習うことになりました。幼なじみ2人に誘われた時は興味本位で乗り気でしたが、月謝が千円(現在の一万円位)と聞き、ムリだ~~と諦めていました。しっかりした両親のいる幼なじみとはスタートラインが違うのですから。本当に習いたい時は、アルバイトをして月謝を稼げばいい…と思っていた矢先、祖母がどこからか(たぶん裕福な大叔父さんの援助)月謝を工面してくれたのです。

週2回・午後7時〜9時、部活と夕食を終え、同級生と銭湯(内湯のある家は少なかった)で汗を流したその足で塾に直行します。肝心の先生は実家の米穀店を継ぎ、日中は自転車で米の配達をしていました。早稲田大学卒の秀才なのに少しも偉ぶらず、顔なじみの祖母は正(しょう)ちゃんと呼んでいました。教室は店の2階にある和室で、先生のお母さんがカルピスなど飲み物やお菓子を出してくれるのが楽しみでした。

それでは、私の英語学習の原点となった、正ちゃん先生の授業スタイルを公開しましょう。ホワイトボードがない時代、文法の説明は広告裏の白紙を使っていました。先生はロの字に並べた長テーブルの真ん中に座り、10人近い生徒は全員身を乗り出して聴いています。その後理解度を確認するために、先生の日本語を即座に英語に変える練習をします。一人一人当てながら、今でいう瞬間英作文をしていました。

先生は言語障害があり、時々顎を引きつるように話しますが、発声が明確で誰も気に留めません。また、初めの頃は正座による足の痺ればかりを気にしていたのですが、100%理解したい気持ちが勝って、いつの間にか痺れなくなりました。こうなると、面倒くさいけど避けられない単語の暗記も苦にならなくなります。

こうして中学時代は、英語だけ何回か念願の学年トップになりました。ただ悲しいかな、素直に喜べません。強力なライバルが男女2人いて、両者とも5教科総合でトップ争いをし、おまけに性格も良いのです。それに比べ私としたことが、理科は学年ワースト10の常連、他3教科は平均並みのヤサグレた中学生でした。トホホ~~。

中3の時、悲報がありました。大叔父さんが亡くなったからか、塾の月謝を払えなくなったのです。中学生にしては難解の英文法『現在完了』『関係代名詞』などを習えなくて不安でしたが、学校の先生の授業も分かりやすかったのと、既に学年トップに執着がなかったので、意外にすんなり気持ちの切り替えができました。

次の課題は高校受験です。落ちこぼれた理科を捨て、4科目で勝負すべく猛勉強した…と言いたいのですが、ちょうどオイルショックの年、受験勉強よりトイレットペーパーを手に入れるのに奔走した記憶の方が鮮明です。それでも何とか、最寄り(歩いて5分)の公立高校に合格できました。

学費が安くて近いという理由で、地元の進学校を選んでしまったまりちん。案の定、学力は停滞。ここから英語学習の闇の時代が始まります。どうやってそれを突破したのか?は、近いうちに公開します。乞うご期待!

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